土管について

現在の上下水道には、鉄管、硬質塩ビ管やヒューム管(遠心鉄筋コンクリート製)の管が使われていますが、これらが登場する以前はやきもの製の「土管」が、さらにさかのぼれば「木樋(もくひ)」や「石樋(せきひ)」が長い間使われて来ました。

ソケット付近代型土管の連結状態
ソケット付近代型土管の連結状態

日本で最初に使われた土管は、6世紀に朝鮮半島を経由して瓦とともに伝来したもので、宮殿や寺院に使われました。瓦と土管の関係は、丸瓦がちょうどこの土管を半割りしたものになります。しかし、土管は広く普及することはなく、変わらず木樋や石樋が上水道用に多く使われていました。その後16世紀には、ソケット付土管が奈良地方を中心に登場します。

明治維新を迎え、大都市の上下水道工事や鉄道敷設で大量の土管が必要となり、水漏れしない、強度があるなどといった品質が要求されました。これら近代型土管として、当初はイギリスから輸入していましたが、国産で対応することになりました。江戸時代から素焼の土管づくりが行われていた常滑では、煉瓦、テラコッタ、タイルなど数々の近代窯業を手がけてきた鯉江方寿が、素焼管で実績のあった土管造りの技術を生かし、大量受注に成功しました。この時の土管は素焼ではなく、真焼(まやけ)と呼ばれる通常より高温で焼き締めた材質で、強度があり、水漏れしないのが長所でした。

伊奈製陶製土管に刻印されたマーク
伊奈製陶製土管に刻印されたマーク

その後も常滑では、上下水道、農業用水路、鉄道用(鉄道開通で断たれた水路の連結用)として、昭和10年代には土管の生産で空前の活況を呈しました。その後、釉薬をかけた土管がつくられるようになり、明治34年頃にはマンガン釉、大正11年頃からは塩釉(食塩釉)のものが登場しました。特に塩釉の土管は1250℃という高温で焼造されるため、強度や水漏れに強い最高品質として全国の評価を得ました。

明治初期の量産型の土管の成形法には、小物用のタタラづくり(粘土を板状にして成形)と口径5寸以上の大型用のヨリコづくり(紐作り)を、最後に木型に押し付けて所定の形・寸法に整え、さらにソケットを接合して仕上げる、鯉江方寿が明治5年から始めた木型成形があります。その後、明治34年以降、スクリュー式やピストン式、ロール式の土管製造機が考案され、実用化されました。戦後の昭和36年には、真空土練機とスクリュー式土管機を合体させた竪型真空土管機が実用新案を取得しました。原料を脱気しながら成形するためより緻密な素地を作ることができ、品質が向上しました。