収蔵品案内「古便器について」

当館では、古便器蒐集家・千羽他何之(せんばたかし、古流松應会家元)氏のコレクションを中核に、古便器の収集と調査研究を行っています。

古便器の基礎知識

【便器誕生】

華麗で精緻な絵柄が染付で施された小便器

貴人たちの間では、古くから「樋箱(ひばこ)」と呼ばれる引出の付いた木製の便器が、溲瓶(しびん)と同じように室内で使われていました。鎌倉時代になると糞尿を溜めて肥料に使うようになり、樋箱の上部だけを床に据えた大便器や、朝顔が開花した形に板を張り合わせた小便器などが登場し、床下には直接甕(かめ)をおくようになります。しかし、このような形をした便器を使ったのは上流武士や富豪に限られ、庶民は排便用の穴を床に開け、その下に素焼の甕を据えた汲み取り式の便所や、甕に直接踏み板を二枚渡しただけの便所を使っていました。

樋箱には、着物の裾を掛けておくために鳥居型やT字型の「衣掛け」とか「衣隠し」とよばれる突起が後部についていましたが、次第に「金隠し」といわれる板を前面に立てるようになります。そして江戸時代末から明治時代にかけて、これらの木製便器は、清潔で耐久性のあるやきものの便器に変わっていきました。

【木製から陶磁器製へ】

紋右衛門窯でつくられた、「還情園池紋製」の染付銘入り便器

陶磁器製の便器が盛んに生産されるようになるのは明治時代の中期以降です。明治24年(1891)に愛知県と岐阜県で濃尾大震災が起き、旅館や料亭、富裕層が復旧家屋の上方(お客様)便所用に、瀬戸(愛知県)でつくられていた染付便器を設置するようになると大流行し、東海地方を中心に全国に普及していきます。

旧家の厠を再現

華麗に染付が施された便器が一世を風靡すると、有田(佐賀県)や平清水(山形県)でもつくられるようになります。その他のやきもの産地でも、常滑(愛知県)では土管に多く見られる塩釉や、飴釉、褐色釉を掛けた便器が、信楽(滋賀県)や赤坂(福岡県)では、白地に青釉を縦や横に流し掛けした便器がつくられました。

明治38年(1905)頃になると、陶器製は変わらず染付が主流でしたが、陶器より高価な磁器製便器は青磁釉を施したものが好まれるようになり、特に関東方面で人気を博します。さらに、明治45年(1912)頃になると、人々の衛生観念が向上して吸水性のない磁器製便器を積極的に使うようになりました。

織部釉(左)と青磁釉の便器一式

大正12年(1923。関東大震災発生)頃には、陶器製の大便器も小判形が主流となり、青磁釉のものが多く出回ります。そして、昭和に入ると白色便器の関心が高まり、白磁の便器が増えました。

【古便器の形】

角形大便器
木製大便器の形状を模して、長方形の下枠に金隠(きんかく)しと呼ばれる板状の粘土を立て付けた大便器。初期の金隠しには、「はね止め」や丁字形の棒「撞木(しゅもく)」がついていませんでした。木型を用いて粘土板を組み合わせる、たたら成形でつくられました。板状の磁器土を高温焼成すると歪みや切れが生じやすいため、磁器製の角形大便器はほとんど生産されませんでした。

小判形大便器
和風便器として馴染みのある、球形状の丸みのある金隠しと、下枠が小判の形をした大便器。磁器製の大便器を安定的に生産するため、石膏型を用いたこの形状が明治24(1891)年頃に瀬戸(愛知県)で生み出されました。

向高形小便器
木桶を用いた小便器の形を踏襲した陶磁器製小便器。轆轤(ろくろ)で成形され、木桶の箍(たが)が装飾として残っています。桶の前部を切り取り、向こう側が高くなった形状が名前の由来。小ぶりで移動可能な溜め置き型の「置便(おきべん)」に対し、底に穴を開けて屋内や軒下などに据え置いて使いました。

朝顔形小便器
板を組み合わせた木製小便器の形状を模してつくられ、口が手前に開いた小便器。朝顔が開花した形に似ていることからこの名があります。木型を用いて粘土板を組み合わせる、たたら成形でつくられました。

【古便器の主な産地】

瀬戸
瀬戸(愛知県)では、江戸時代末期の安政年間(1854-60)頃からやきものの便器がつくられ始めたといわれています。濃尾大震災の復興家屋向けに陶器や磁器による便器の需要が拡大し、染付が施された便器を中心に生産が大きく伸びます。明治末(1911年)頃まで主生産品だった染付便器は、磁器製は明治37(1904)年頃にはあまりつくられなくなりますが、陶器製は染付の加飾技法が大正時代に手描きから銅板転写へと効率化したことも相まって、戦前までつくられました。瀬戸の染付は黒味がかった鮮やかな青で、スケッチ画から写したような絵画的な絵付けを施すのが特徴です。染付以外にも、食器同様に織部や志野、黄瀬戸などの絵付けや釉薬が施された陶器製の便器がつくられました。

有田
有田(佐賀県)での便器生産は極めて少なく、明治32(1899)年頃、数年の短い期間に松尾徳助が磁器製便器をつくる程度でした。それらには、染付で唐草などの文様がパターンとなって、余白を活かしながら描かれています。

平清水
平清水(山形県)では、明治44(1911)年頃から瀬戸産の染付便器を参考につくられ始め、戦後まで生産されました。鉄分の多い粘土を主原料とした素地(きじ)で成形し、陶石を粉砕した白泥を表面に化粧掛けした上に染付画を施しています。平清水の染付は鮮やかなコバルト色で、中央の牡丹図と脇の花唐草文は大きく単純化されて描かれています。陶器製でありながら吸水性が少なく寒冷地に適していたため、東北地方を中心に出回りました。

常滑
常滑(愛知県)は素焼でできた肥溜め用の甕の産地で、安政元年(1854)から陶器製の便器がつくられはじめたといわれています。鉄分を含んだ粘土素地に飴釉や褐色釉が施されました。この地域では、明治時代から大正時代にかけて土管が主力産業となり、便器の生産量は増えませんでした。

信楽
信楽(滋賀県)では、明治初期(1868年頃)より陶器製便器がつくられはじめたとされます。装飾は、荒めの白土に青釉を掛け分けた「青竹」から、青や緑の釉薬を縦横に流し掛けた「虎がけ」に変わっていきました。大便器は角形が主流で、いわゆる小判形は作られず、長方形の下枠に半円形の金隠しが付いた形がつくられました。明治末年頃から朝顔形小便器の口形状が大小4種類に変化し、口が広めのものは女性にも使われ、需要の高い北陸から山陰方面へ販路が伸びました。海鼠(なまこ)釉や白釉が掛けられた口広の朝顔形小便器は、昭和の晩年まで作られていました。

赤坂
赤坂(福岡県)では、素焼でできた肥溜め用の甕の産地が近くにあり、明治元年より便器がつくられはじめたといわれています。鉄分を含んだきめ細かい粘土に緑青色釉や蕎麦釉などが掛け分けられた、信楽風の形状をした陶器製便器でした。

高浜
高浜(愛知県三河地方)では、かまどやこんろなどを生産していた神谷市太郎によって、赤栗色の釉薬がかけられた、楽焼(らくやき)程度の低温焼成による陶器製便器が明治43(1910)年からつくられ始めました。強度的に不十分だが安価であったと考えられ、大正時代に入ると三河便器の生産が増え、碧南市新川でも低温焼成による便器がつくられるようになりました。

厠下駄

用を足す際に床を汚さなくて済むよう、立ち位置を示すため小便器の前に置かれたもので、歩行には向きません。特に大便器では、自分への跳ね返りを防ぐため、つま先に覆いが付いたものが好まれました。汚れても水洗いができる陶磁器製が、それまで使われていた藁草履や木製の下駄に取って代わりました。

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